新井悠生さん、新井千保さん(後編)

https://inclusive-hub.com/official_posts/228から続く

難治性てんかん、どうにか治らないだろうか。
発症率からの数年、有名な医師や治療法を目にすれば、どこかに手立てがあると思っていたし、思いたかった。
国立病院機構が運営する「静岡てんかん神経医療センター」で長期入院生活もした、脳神経内科、外科の第一人者の医師のもとも訪れた。
体内に電気刺激装置を埋め込む『迷走神経刺激療法』も試している。

10年以上かけそこまでやってみて、現代の医学ではこのてんかんを止めることは出来ない、ということが実感を伴いわかってきた。
だからもう覚悟してこの病と共に生きていくしかない、と諦めにも似た覚悟ができた。

脳の傷である高次脳機能障害が治らないことも理解できた。しかし、この障害は周囲が理解し、本人が安心できる環境が整えば、薄くなるものであることも理解した。

振り返ると発症当時は、良き助言も優しい慰めも、耳に入らない頃があった。
現実的に息子がどうなっていくのかが見通せなかったから。
当事者、家族で、なんとか挫けないように必死だった。
その頃欲しかったのは、少し先をいく、同じような立場の先輩家族からの、シビアな言葉だったかもしれない。
『退院してからが、スタート、これから先は大変だらけだよ』『大丈夫とは言えないし、やること沢山ある、話したくなったら言ってね』と言ってもらいたかった気がしている。

悠生さん家族はそこを、乗り越えてきたが、きっと今もそんな家族はどこかにいるのではないだろうか。
教育現場は、1人の稀な症状の子どものために理解や配慮ができるように変わったのだろうか。
学齢期を過ぎてしまえば、そこに戻ることはなく、学校が変化したのか、していないのか、知ることは難しい。

悠生さんは現在、27歳になった。
本来であれば、就労して自立生活を送る年齢だが、安定しないてんかん発作のため、受け皿がない。バスを利用して生活支援のデイサービスに通所している。

就労支援施設に相談に行ったら、一日中車椅子に座っていて欲しい、とか、
難治性と説明しているのに、てんかんが治ったら来て下さい、と言われたこともある。

知らない人には、大きな発作は怖いし、どうしていいかわからない。
けれど、本人の説明を聞き、てんかんを理解すれば、どこかに折り合いが付けられる地点があるのでは、と千保さんは言う。

悠生さんと家族の願い
当事者が、『私てんかんがあるの』と普通に言えて
『じゃあ、いざという時どうすればいい?教えて!』
と、そんな会話が普通になってほしいと。

その後に出た言葉が忘れられない。
『そうじゃないと、誰も安心して障がい者になれないよ』
その安心をもたらすのはだれだろうか?
決して当事者ではない。
周囲の人、たまたま出会った人、1人ひとりが、『てんかん』という病をまず知ることから、その安心は積み上がっていく。