森田かずよさん(前編)
2021年8月に開催された東京パラリンピック2020開会式。そのラストを飾ったソロダンサーが、森田かずよさんだ。生まれつき二分脊椎症・先天性奇形・側弯症という障害をもち、義足を身につけたり車椅子に乗りながら舞台に立つ表現者。
最近も、大阪・関西万博においてオランダ王国の公式プログラムとして披露された、障害の有無に関係なく多様な身体性を生かして新たな価値を創造する「インテグレイテッドダンス」に参画するなど、国内外で活躍を続けている。
森田さんが生まれた40数年前の時代からここに至る道程を振り返ってもらうと、「自分の努力うんぬんではできないこともたくさんある」と、自分を取り巻く家族や周囲や環境への感謝が伝わってきた。
障害をもって生まれ、成長して「揺るぎない親子関係になった」後に、お母さんから聞かされたことがある。
森田さんが生まれた当時は出生前診断もなく、お母さんは「何の心構えもなく」森田さんを産んだ。障害のある子どもを産み育てることは「今よりもっと大変な時代」だった。お母さんは、障害がある子供を産むとは全く想像していなかったし、一度は「死んでほしいと」願った。病院では「すぐ死ぬからと、乳を止められた」。
母子の面会が1か月も叶わなかった。それでも、森田さんの生命力は強かった。そして、お母さんは「自分が育てる」と切り替え、覚悟を決めた。
しかし、障害のある子の育児負担は想像以上だった。救ったのは、父方の大家族。「みんなで育てる」というひいおばあさんの鶴の一言で同居生活が始まった。
それでも、お金はかかる。サラリーマンだったお父さんは仕事を変え、自営業に転じ、お母さんもそこで必死に働いた。
当時は、養護学校か普通学校で、支援学級など(という制度はまだ)存在しない時代。通った近くの公立小学校は、「それまで障害のある子が入学したことがない(受け入れたことがない)学校」だった。結果的には、6年間、ランドセルを背負えないことや遠足への参加など「すべてにおいてちょっと違う子」ではあっても、友達関係も悪くなく通えたが、入学や学校行事の参加など、お母さんが「校長先生や市議会議員に何度も頭を下げていた」ことを後から知った。
中学、高校は私学の女子校に進んだ。重度の障害を持つ彼女を受け入れてくれるのか。最初は「ここまで(障害が)重い子は初めて」と言われ、「特別なことは何もできない」「事故があっても責任は取れない」と条件をつけられるも、通常通りの入学試験を経て、受け入れてくれた。
6年間満員電車に乗って通い続けた。学校では4階までの階段を上った。すると、いつの間にか学校の階段に手すりが設置されていた。いじめも経験したが総じて「あたたかくて、居心地がいい6年間だった」という。
大学は最初は医療福祉系を目指した。出生時から医療機関と関わることが多かったからか、自然とそういった思考が身についていた。医療ソーシャルワーカーになる夢を抱いた。しかし、ちょうど入試の年が、阪神淡路大震災の翌年であった。震災の影響もあり、医療・福祉系大学の入学倍率が上がり、合格することができず、最終的に全く違う分野の大学に進学した。
大学進学にはもうひとつエピソードがある。母がクラシック音楽が好きということもあり、幼少期から演奏会などに連れて行ってもらう機会が多くあった。演奏会だけでなく、演劇やバレエの時もあった。密かに「パフォーマンスへの憧れ」を抱きつつあった。
大学進学を考える時期に、芸大も選択肢のひとつにあった。大学に問い合わせ、障害があることがわかると、「趣旨がわかっていらっしゃいますか」と。障害者は芸術表現活動に進むことが全く想定されていなかった。森田さんは「初めて自分が本当に障害者だと思った」とこの時の心境を述べる。
しかし、森田さんは諦めなかった。むしろ、弾けたのかもしれない。
進学した大学の演劇部に入り、外部のミュージカルスクールにも通った。そこでは拒絶されることはなく、ダンスレッスンには助手の先生もつけてくれるなど「受け入れてもらえた」。今では「あそこで断られていたら人生が変わっていたかもしれない」と振り返る。
【後編へ続く】https://inclusive-hub.com/official_posts/264
【森田かずよさんオフィシャルサイト】http://www.convey-art.com/index.html