森田かずよさん(後編)

【前編から続く】https://inclusive-hub.com/official_posts/263

 大学時代にパフォーマンスへの門をたたき、その後、東京パラリンピック2020開会式のラストを飾るダンサーにまでなった森田さん。

 しかし、「たぶん東京パラの開催が決まるくらいまでは、ダンスや演劇でプロであるとか、お金をもらうという感覚が私自身も薄かった。今は収入としては不安定ながら、自分はプロフェッショナルだといえる。週5で子ども英会話教室の先生をしていた時もありますし」と笑って話すほどに、その道は険しかった。

 大学卒業時は、超氷河期。就職には恵まれず、大学で学んだネット知識を使ったパソコン教室のアルバイトで食いつなぎながら、演劇のオーディションを受け続けた。
 その中で、健常者と同じ舞台で、どうしたら能力の差を埋めればいいのか?そのために、自分の表現をどう磨けばいいのか?障害や他者との違いに直面する日々が続いた。

 そんな中で、2000年代から社会環境が少しずつ変わり始める。
 インクルーシブダンスの先駆けとされる英国のダンスカンパニーが来日するなど、日本でも障害者のあるダンサーによるパフォーマンスが知られるようになり、障害のある人の芸術活動に対して補助金事業や企業の社会貢献活動が紐づく環境が醸成されていく。
 森田さんも表現者として「自分の体で自由に踊っていいんだ」と気付かされ、自身のパフォーマンスもダンス色が強くなっていった。

 さらに、2012年にはロンドンでパラリンピックが開催される。その開催に向けて英国では、文化プログラムを大切にし、障害のあるアーティストの創造性溢れる活動を支援する文化プログラム「アンリミテッド(Unlimited)」が展開された。
 それをお手本にしようとしたのが、2020年の東京パラリンピックだった。開催の4年ほど前から文化プログラムが始まった。そこでは障害のあるアーティストによる表現活動も多く含まれた。そして、2018年には「障害者による文化芸術活動の推進に関する法律」が施行された。日本が変わり始めた。

 「社会が変わらないとチャンスは来ない。だから、そのチャンスを掴めるように。」

 障害者の芸術活動がやっと可視化されて、少ないながらも支援される社会に変わった。でも、それまでに自身の表現を高め続ける努力を怠っていたら、東京パラ開会式のラストダンサーというチャンスを掴むことはできなかった。見えない道を歩み続け、目的地にたどり着いた森田さんから出た言葉だ。

 そして、もう一言。

 「私はとてもラッキーだったと思うし、人に恵まれた。」

 その言葉は、未来にも投げかけられている。
 英国をはじめ海外のダンサーは「disabled dancer(障害のあるダンサー)」であることにプライドを持ち、社会に対して「自分たちの問題として何が足りないのか」をちゃんと声を大にして主張する。
 それに対して、日本はまだまだ「障害のある」という言葉がマイナスの言葉だけのように聞こえてしまう傾向がある。
障害者自身も「何が足りないのかをわかっていても、主張せずに変わることを待ってしまう」と、森田さんは感じている。
 問題があるなら言い続けないと、社会が少しでも変わり始めた時に、そのチャンスを掴めないよ。森田さんはそう投げかけたいように感じた。

 2024年5月から放送されたNHKドラマ「パーセント」。出演者の3割にあたる、10名以上の障害のある俳優がキャスティングされた。これも、「健常者が障害者の役を演じるのではなく、当事者が障害者の役を演じるべき」と、森田さんがエッセイなどを通じて発信し続けてきたことが叶った時だった。

 森田さんは現在、ダンサー、時には俳優、またワークショップや講師として多忙な日々を送る傍ら、大阪大学大学院の哲学コース博士課程に在籍している。これまでの自分の歩みを振り返りつつ、改めて「障害とは何なのか?」「障害のある身体で踊ることは何なのか?」について研究する日々だ。

 そんな森田さんから次はどんな発信が出てくるのかが楽しみだ。それ以上に、その積み重ねに社会が追い付き、そして社会がまた変わっていくことが楽しみでならない。

【森田かずよさんオフィシャルサイト】http://www.convey-art.com/index.html